可愛い服を買っちゃったわよね。merry jennyが好きなのよね。RANWAY Channelのセールで抑えきれなかった。可愛いじゃんメリーの服。でもこれをイタくならずに着れる賞味期限ってあるじゃん。まあわたし童顔だからまだまだ着れるんだけど。
寒がりなのでこれ一枚では出かけらんないけどこれの中に着込むとあまりにも見た目が暑そうすぎるという難点がある。中に厚手のコットンのインナー着てるし下はスラックス履いてる。スラックスじゃない方が見た感じ軽やかで可愛いのはわかってるけど寒いんだもん。
メリーのフリルトリムのスエットドッキングワンピも買っちゃった。買わないでおこうって決めてはいたんだけどなんか…店舗で見たらセールしてて…試着したら可愛かったから……買っちゃった………。後悔はしていない。可愛いからね。ほんとに可愛いからずっと姿見の前に立ってたくなる。
てかわたし常々寒がってるからバ先のおじさんに自律神経失調症を疑われてるんだけど、ご覧の通りその通りよ。自律神経はとっくの昔にぶっ壊れてるわ。そもそも中学で鬱、高校で過食、二十歳すぎてもピアスをやめられなかったし、いまだに外殻に固執はしてる。
まあ元気なのですけど…。どっか折れても切られても、ひん曲げられても元気に生きてる木ってあるじゃん。もはや接木で途中から薔薇になってる木とか、なんでやねんみたいな形にワイヤーで引っ張って育てる盆栽とか、あるじゃないですか。でも元気、みたいな。
そういう木を見てここ切られてるね、可哀想にね、とはあまり思わないと思うんですけど(わたしだけ?)、なんなら幸田文みたいな人たちなんかに「切られたとこから新芽が出てて良き」みたいな表現をされたりするくらいだと思うんですけど、人間社会というのはなぜ傷口を見たら根掘り葉掘りしてからかわいそがろうとするんでしょう。
傷跡も見たがるから見たいなら見せてあげようと思ったらグロがられる、みたいな。これは比喩ね。好奇心なんでしょうか。触ったら気持ち悪くなるけど触りたくなるスライム、みたいな。そうして傷をひけらかして歩いてると思われるのもまた不愉快、みたいな。
ポケモンとかシルバニアとか、みんなが知ってるものを前面に押し出して生きてたら、みんなそっちに食いついて話してくれるから楽です。もちろんポケモンもシルバニアも嘘偽りなく大好きですけど、二回目のファミマのキラキラくじもA賞B賞ラストワン賞まで手に入れたけど、こういうのももはや偏執になっちゃっているような気がする。
自分で自分がわからなくなる。キャラ付けで始めたことなのか、どこから始まってなにが結果なのか、なにをするためにこれを買ったのか、とか。シルバニアは基本的に握ったりつついたりして可愛がってる。嘘偽りなく本心から可愛いとは思ってる。だけどこれがシルバニア達にとって生まれてきた意義となり得るのか、みたいな。
やっぱり子どもたちの玩具として生まれてきたからには子どもたちに遊んでもらうのが本望だろうな、とか。収納ケースに並べられて下から眺めて「かわちいあんよだね~^^」って可愛がってるのはいけないことなのか、とか。いやまあいけないことはないんだろうけど。
じゃあもしお洋服が大好きな人が、自分は着ない(or着れない)けど可愛いからって言って、綺麗な服とかを買ってクローゼットに吊るしておくのも悪いことなんだろうか?アンティークでもヴィンテージでもお洋服である限り着てあげるのがその服にとって良いことだって思う人もいるし、可愛がるために手に入れるのも良いことだって思う人もいるだろう。
使ってこそ論もいきすぎたら博物館を打ち壊さなきゃいけなくなるし、いいんだろうね、どっちでも。だけどシルバニアに関しては遊んであげられないといけないような気がする。洋服も「このデザインをいつでも手元に呼び出せる状態にしておきたい」って気持ちで買うことがある。推しメンが着てたから買ったTシャツとか。
別に服なんて売れりゃどっちでもいいんだろうけど。だって作る側からしたら、目的はどのように/どれほど可愛がってもらえるかじゃなくてより売り上げを上げることなわけだし。
モスバーガーだって、美味しいものを作るのが目的じゃないでしょ?目的は売上を上げること。美味しいものを作るのはそのための手段であるはずだもんね。
まあでもたぶん、わたしが不安になるのはわたし自身に自信がないからなのだ。とっとと顔面国宝美少女になって、ブランドの白Tの値札見て「ただの布だぜ?!?」て叫べるようになりたいんだよな。これ打ってて気づいたけどiPhoneのディスプレイが死に散らかしてるからそろそろ新しいiPhoneが欲しいな。
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